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空手修行40周年記念式典

押忍

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私は今年で、空手を始めて40年、道場開設して20年になりました。
その節目に、私の弟子達が「式典実行委員会」を結成し12月3日、郡山市の「ホテルはまつ」で、「空手修行40年道場開設20周年記念式典」を開催してくれました。有り難い事です。
当日は400名の門馬道場関係者が御列席下さいました。
今回、県外の方々や道場関係者以外は御招待していませんでしたが、私の知らない所で実行委員会がサプライズを用意してくれ、様々な方々からのお花やビデオメッセージ、お祝いなどが届き感無量でした。皆様ありがとうございました。
記念誌や動画や冊子、記念品やポスター等々、数え切れない程のプレゼント、それらを準備するのに大変な苦労があっただろうと考えると目頭が熱くなります。職員や実行委員会や道場生や保護者の方々、本当に嬉しいです。ありがとうございました。心より感謝・御礼を申し上げます。
このご恩は必ずや人生を賭けてお返し致します。
私は果報者です。
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  • 12:09 
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本年も宜しくお願い致します。

押忍

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昨年は色々とお世話になり、ありがとうございました。
喪中ですので新年のご挨拶は出来ませんが、本年も宜しくお願い致します。

昨年も、やはり震災復興に関連する設計業務や、空手の行事などで本当に忙しい1年でありました。

仕事も空手も、こうして順調な一年を過ごさせて頂けるのも私を応援してくれる皆様のお陰と、本当に心より感謝しております。

あまりに忙し過ぎて、ブログもFBも後半は全く書けませんでしたが、今年はもっと積極的に情報を発信していきたいと考えております(^^;;

皆様、今年もお互い良い年に致しましょう(^^)


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  • 10:49 
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人生の選択

押忍

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久しくブログを書いていない。もちろんフェイスブックも投稿していないし殆ど見なくなってしまった。別に何があった訳ではないが、強いて言うなら忙しくそんな余裕もないということか。

ブログやフェイスブックは、自分の想いや行動、主張など何かを伝えたいから書くのだと思うが、とにかく毎日のように仕事関係や空手関係の人と会っているので、殊更伝えたいことや主張したいことがあれば話す機会はいくらでもあるのでブログなどを書く必要性をあまり感じなくなってしまった。

おかげで精神衛生上とても良い。しかし立場上、門下生や保護者の方などを含む不特定多数の方々にも、私の考え方なりを理解してもらう必要性もあると思うので、こうしてたまには書こうと努力はする。

人生には度々選択を迫られる時があるが、それを選択し決定するのは最終的には自分自身である。だから幸せでも不幸せでも、成功しても失敗しても全てが自己責任であり誰のせいでもない。わかりきったことだ。でも都合のいいことは自分の選択が正しく都合の悪いことは誰かのせいで選択が間違ったと考えている人がいる現実に驚く事がある。

先日ある方と話した時、「他人の文句や愚痴を延々と聞かされて辟易した」と言っていた。私もこの手の話を聞く事はもちろんあるが、その人の負のエネルギーを体一杯浴びて、本当にこっちまでイヤーな気分になる。

世の中は、思った通りには行かない事の方が多いし、辛い事や苦しい事や悲しい事は日常的にあって、生きていくって結構大変だなと思う。

それでも、私達はちっちゃな楽しみや目標、またはでっかい夢を持ってそれに向かって頑張っている「充実感」や、目標を達成した時の「充足感」、夢を叶えた時の次の夢への「希望」があるから、日常の嫌な事なんて乗り越え元気に生きられる。

逆に言えば、あまり目標や目的の設定が上手くない人は、そういう充実感や充足感や希望などもあまり感じる事もないからいつも自分は満たされておらず、本当は自分が悪いのに全部人のせいにして他人の文句や愚痴ばかり出るのだと思う。

例えば空手を始める。おかげで自分の生活には張りが出て、頑張る事や目標を持つ事の大切さを感じ、本当に生き生きとしてくる。仕事も含め色んな事が好転してくるだろう。ところが、ちょっと困難にぶつかると逃げ出す選択をいつもしてきた人は、考え方が逆になっていく。私が大変なのは空手のせい、仕事が上手くいかないのは空手のせい、家庭が上手くいかないのは空手のせい・・・もうバカとしか言いようがない。全部本人の考え方、物事の捉え方、決断の仕方、生き様が間違っているのであって、今の自分を取り巻く環境を作ってきたのは自分自身なのに、誰かのせいにしたり言っている事が変わったり気持ちが様変わりする。私がこうなったのはあなたのせい・・・。

別に空手など夢中になるものが無く、淡々と仕事に没頭しそれで充実している人は沢山いる。そういう方はそういう方で日々仕事や家庭を生き甲斐に、特に犠牲も払わず平凡ではあるがそこに幸せを見つけコツコツ頑張っている。かたや空手など夢中になるものを見つけ、豊かな人間性を求め寝る間も惜しみ様々なものを犠牲にしながら頑張っていく人もいる。だからといって仕事や家庭を顧みないとか疎かにするというのは全く別の問題だし、大体、人生ってのは一つ上手くいけば相乗効果で他も上手くいくものであり、道場では信用がないが会社では信用があるとか、会社では信用がないが道場では信用があるなんて事は有り得ない。どんな選択をしても要は生き方の問題であるからどちらの生き方が良い悪いではない。選択するのは本人の自由である。しかし、他人の文句や愚痴をこぼす人は結局どんな選択をしても一緒で、私が不幸なのは何かをやっているからとか誰かのせいという考えになるのだろう。

少なくとも、私達空手の指導者は子供達や門下生には目的・目標を持って頑張れるよう導いてあげなければならないだろうし、そのためにも自分自身が目的・目標を持って日々精進しなければならないと常々思う。
何かを多少犠牲にしながらも夢中になれるおかげで、充実して明るく強く生きていけるのだろうし、結果、それだけ人生を賭して追い求めるものだからこそ生きて行く上で価値があり、世の中から必要とされ信用・信頼のある人になれるのではないかと思う。
決して自分の選択したことを他人のせいにするような生き方を正当化するために、他人の文句を誰かにクドクドと説くような人間にはならないようにしようと、改めて自分自身をも戒めなければならないと思う。

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  • 14:34 
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極真空手の礼

押忍

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極真空手の礼には、不動立ちで「押忍」と十字を切って礼をする立礼と、正座で行う座礼がある。昔から立礼も座礼も、どこの支部でも普通にやっていたが、多分詳しく教えて貰ったことはあまりないと思う。

私も礼節にはかなり厳しい師範・先生方に教えて頂いたが、立礼も一種類で上体の角度は15度とか、正座の仕方も「左座右起」で上体の角度は45度、礼をする時の両拳は床に同時に着いて同時に戻していた。本来、芸事や武道には「三節の礼」と言って、神・師・同僚に対する礼が細かく定められているが、他支部も含め特段そこに拘る人などは殆んどいなかったと思う。

しかし、最近はどこの道場でも「武道教育」を謳っていて、「武道は礼に始まり礼に終わる」の格言通り、正座の仕方や座礼の仕方をキチンと整備している道場もあるみたいだが、やはり殆どの道場は昔のままのやり方である。

私は居合道や古武術などもやっているので、正座の仕方を含め武道の礼節は大分学んだつもりであるが、極真のそれとは大分異なる。極真の礼は形より精神を大事にし所作は自由であるのに対し、居合い等は精神に加え細かい所作まで全て決まっている。
どちらが良いと言う訳ではなく、要は相手に対し、尊敬・尊重・感謝の心を持って礼を尽くす事が大事なのであって形式ではない。
とはいえ、素晴らしい精神を持っていても、所作がないがしろでは相手に伝わらない事もあり、本当の礼節とは言えないのも事実。

このような事から、門馬道場では昔の極真の礼と比較し違和感の無い範囲で細かい礼の所作を決め、文章化して全指導員に配布した。来週あたりからその辺の整備が各道場で行われると思うので、是非、キチンと会得して欲しい。ただし、繰り返すが礼はその形を言うのではなく心の在り方である。各指導員の先生方もそこをしっかり踏まえて指導して欲しい。

詳細の文章は各指導員の先生方にしか配布していないので、道場生や保護者の方々のために、ここに簡単に概要を書くが、同じ武道でも剣道や居合い、柔道や合気道、そして小笠原流礼法や神道など、それぞれ独自の解釈がありかなり異なる。同じ極真でも違う位だから仕方ないが、そこの所は柔軟に解釈しながら読んで頂きたい。

1.正座
昭和に入り当時の文部省は、国民が心得るべき作法として「正座」を普及させたと言います。「正座」は「かしこまる」ことですが、この座り方が芸道や武道では必須の作法とされています。
正座をする際、今の日本の礼法では、「左座右起(さざうき)」と言って、座るときは左足から、立つときは右足からという習慣があります。昔は立っているのが普通の状態で、正座は「かしこまる」という考えから、あらたまった場では、正座が常の状態で、立っているのは失礼な状態であると考えられました。
武道の世界では、原則として、神前や神棚や正面席に近いほど上座、遠いほど下座(縦の位置関係)と、神前や神棚や正面席に向かって右側を上座、左側を下座(横の位置関係)とする習慣があります。(一般的には、出入口側が下座側となりますので道場の構造等により「右座左起(うざさき)」となる場合もあります)
このようなことから、失礼な状態から常の状態に移行する場合、例えば正座で座る時には下座側の足から行動を起こし、逆に立ち上がる場合には、上座側の足から退出の行動を起こすという考え方になります。
また、座礼をするときも、相手を敬って下座側となる左手からついて、次いで右手をついて礼をし、直る時は上座側となる右手から戻し、次いで左手を戻すという考え方になります。立ち方はこれらと逆に行います。

具体的な方法、詳細は指導員に聞いて下さい。

2.座礼
両拳を左右の順に膝の前に揃えて出します。拳と膝の間隔は拳一つ分です。上体を45度位に傾け、首で礼をするのではなく上半身で礼をします。「押忍」と言い一呼吸して、元の姿勢に戻ります。
注意点は、背筋を伸ばして首を曲げずに上半身を倒すつもりで相手から目を逸らさないようにします。目線はやや下に落としますが、隙を作らない様に意識は常に相手に向けておきます。

具体的な方法、詳細は指導員に聞いて下さい。

3.立礼
立礼には二種類ありますが、何れも相手を注視しながらも身体全体に意を配り、頭だけを深く下げ過ぎないことです。礼の途中に相手から攻撃を仕掛けられても、それに対処できるようにして下さい。
①神前および師への礼
②相互の礼

立礼は上記二種類としますが、具体的な方法、詳細は指導員に聞いて下さい。

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空手の意義

押忍

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私が空手を始めた40年近く前、空手を習う人の殆どの動機は喧嘩に強くなりたいだった。

今はどうだろう?門馬道場の入門誓約書を見ても、入門動機に喧嘩が強くなりたいというのは皆無である(^^;;

時代が違うので当たり前なのかもしれないが、じゃあどんな動機で入門するのだろう。

健康、ストレス解消、礼節を学ぶ、心身を強くしたい・・・と様々である。

しかしだ、健康やストレス解消で入門しても、ずっとそのままの目的では2年も3年も続かない。

また、礼節を学ぶためでも心身を強くするためでも、それだけの目的で長く続けるのもやはり困難である。

じゃあ空手道場のキャッチコピーは嘘か?
詐欺か?

いやいや、そうではない。最初の目的はそれだけでも良い。でも、やがて目的や目標が変わって行くのだ。イヤ、変わらなければ道場として機能していないと言っても良い。

目的や目標はより高みを目指して、また人としても成長したいという願望なくして長い期間空手を継続するのは無理と言っても過言ではないと思う。

人としての成長・・・この文句は大変漠然としていて、何かの会やクラブの謳い文句みたいで、ある意味怪しい言葉だが、空手道場に当て嵌めて考えれば、要するに万日の稽古を通して強くなるということである。

その強さは腕力や脚力に限らず「暴力に屈せず権利に媚びず金の奴隷にならない」、自分の大切なもの、例えばプライド、家族、愛する人などを守るために人として生きることに大切な強さである。

その強さを修得するためには密度の濃い長い期間の修行が必要なのである。それは、週2回で4時間、月に16時間程度の道場稽古を5年、10年続けたからと言って身につくものではない。月16時間と言っても、それは1ヶ月の内のたった1日にも満たない時間でしかなく、それで自分が変われるほど強くなったら誰も苦労しない。


以前、太氣拳の佐藤嘉道先生にこんな話を聞いたことがある。昔、佐藤先生が澤井先生に「佐藤君、太氣は毎日稽古しないと駄目だよ」と言われたらしい。

しかし、当時教鞭を執っていた佐藤先生は「仕事があるので毎日は無理です」と言ったら、澤井先生は「その気になれば毎日出来る。君にその気がないだけだよ」と言われたそうだ。

佐藤先生は、後でよくよく考えたら澤井先生の言ってる意味がわかったと仰っていた。

稽古は、身体を動かして何時間も集中しなければならないと思っていたが、例えば、朝、顔を洗って鏡を見たついでに「フン」と氣を入れたらそれが太氣の稽古だと気付いたそうだ。
その意識が毎日稽古すると言う事なのだと。


一般社会で日々揉まれ葛藤している私達が、空手道を通して弱い自分を変えたい、人として強くなりたいと思うならば、稽古の時間だけ空手の事を考えるのではなく、日常の中でも常に強くなりたいと思い続けその努力をする。

また、稽古や大会や審査会に行く時間を捻出するために常に生活の段取りを考え、多少の、イヤ、多くの犠牲を払いながら万障繰り合わす。
人として強くなる為には、日常から強くなりたいという意識を持ち続け、それを継続するための努力や、そのことに時間を割く努力がとても大切なのではないだろうか。

少なくとも自分の余暇の時間を上手に使い、大して犠牲も払わず、週に2~3回の稽古に出ただけで人として強くなるのは難しいと思う。それで得た黒帯や立場など、後々の困難な局面に立った時、その黒帯や立場が大きな自信に繋がり困難を打破するほどの財産になるだろうか。

頑張って頑張って、それでも駄目で、辛くて苦しくて、でもそんな時、大切な黒帯を握り締め涙しながら「俺は黒帯だ。あれだけ頑張って来たんだ。絶対あきらめない」、そう思えるほどの困難を乗り越えながら続けてきた空手だからこそ、空手を頑張る価値や意義があると思うが如何だろうか。

「生涯の修行を空手の道に通じ、極真の道を全うすること」




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