思考伝聞

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押忍

体罰について

  前にもこのブログで書いたと思うが、世間を賑わす「事件」などについて仲間同士で話すのは構わないが、ことブログとなると色々な方が読んでいるので、詳細も知らずにあれこれ書くのは如何なものかと思い、この「思考伝聞」ブログは極力「空手」に関する内容に終始している。
しかし、昨年12月、大阪市で高校2年生の生徒が、教師の体罰が原因で自殺したという、痛ましい事件が起き、最近、この様な事件の報道を耳にする度に思う事があるので、今回は少し触れてみたいと思う。



大阪市の教育委員会は、この件を「男子生徒が自宅で自殺する事案が発生した。」と、事件を事案と呼んで記者会見をした。確かに、この時点では法律上「事件」とはなっていないので公的には「事案」と呼ぶのは正しいのかもしれない。しかし、今回の件は「体罰」というより「暴力」であり犯罪行為なのに、教育委員会はそれらの責任を回避したい魂胆が見え見えで、人間として如何なものかと怒りさえ覚える。



日本の教育学的な定義では「体罰」は全てが悪い事に該当するようだが、本来、「体罰」と「暴行」はまったく違うものだと思う。暴行は自分本位の感情のみだが、体罰は子供の教育が目的である。体罰は子供の進歩を促すため、その時は嫌な気分にもなるが、行わねばならない時もある。それによって、時には子供に悪態をつかれたり、親に文句を言われる事もある。教師ならクビになる事だってある。
人間は感情を持った生き物である。腹が立てば時には本気で怒る。時には手が出る事もあるだろう。でも、それは相手に対して真剣だからである。真剣だからこそ自分の身を賭してでも愛情を持って体罰を行う。そんな親や先生がいなければ、日本の教育は廃れていく。
その体罰によって、生徒が怪我をしたり、追い詰められたり、実際に死んでしまうとしたら、そこに愛情はなく、体罰の仕方が間違っていると言う事である。
そもそも、高校の部活動は自発的にやるものである。嫌ならやらなくてもいいし、体罰をしてまで強制的にやらせるものではない。そんな甘っちょろい事を言っていたのでは健全な精神は鍛えられないが、少なくとも教師や生徒の間に愛情を挟んだ信頼関係がないと、体罰はただの暴力になってしまうのかもしれない。




「体罰」は明治時代、既に法律で禁止されていたそうだし、私も体罰を正当化する気は毛頭ない。まして、子供に罰を与えて抑え込む事が必ずしも良いとは思わない。
しかし、私も「学校教育」の問題等に多少は係わり、頭を悩ませた事があるが、例えば生徒が教師に暴力をふるっても、教師がこれを抑止する手段を持たない。注意しても言うことを聞かず、だからと言って警察に通報も出来ない状況で、暴力をふるう生徒をどう指導すれば良いのか?例えば、自分の子供が悪さをして言う事を聞かなければ、親父は最後に我が子を殴るかもしれない。もちろん学校でも、親は子供が悪さをしたらどんどん叱ってくれと言うが、いざ子供が教師に何かされたら掌を返したように学校非難をし、教師の体罰を大問題にする。「相手は子供なんだし、教師だから当然。指導力がないだけだ。」と片付けてしまえばそれまでだが、指導する側に何らかの力の行使を認めない限り、学校や教師を批判しても、いじめや校内暴力はなくならないと思う。
「丸腰」の教師が、どうやって大人の様に言う事を聞かない、他人の子供の暴力生徒を指導出来るのかは難しい問題であると思う。大人の想いを「言葉」だけで伝えられるほど思春期の教育は単純ではない。



そもそも、他人に迷惑をかける事を平然と行い、それが悪いと気付いておらず、自分の事しか考えない大人が多いのだから、子供の「躾」なんて出来ない親の問題が何より大きい。親がモンスター化する凄まじい状況の中、学校や教師に責任をなすりつける態度こそが、暴力生徒を増やしている要因なのではないかと思う。大人同士の話し合いなんて、具体性、緊急性に欠け一般論で終わってしまう。
今回、安倍政権が復活し、またしても「教育再生」を謳い、「6・3・3・4の学制改革」なるものを掲げ理想的な改革をしようとしているが、学校教育の中身を今のままで放置し、学制をいじっても大して意味はないと思うし、そんなに単純な話とも思えない。政策も何もないまま「平成の学制大改革」と銘打つのはまだまだ時期尚早であると思う。
最も、「中学生の武道必修化」もこの安倍さんが実行したのだが、あまりに単細胞的考え方であり、武道を教えている私から見ても、世紀の愚策としか言いようがない。



人が一人前の大人になるためには、実は子供の時代が最も重要らしく、「子供の教育で足りないところは、後々少しずつ克服すればいい」等と思っていると手遅れになるらしい。
例えば、男の子なら3歳ぐらいから「男」になり始め、小学校を卒業する頃には、人間性の基礎はほぼ出来上がっているらしく、今の時代の「草食系」ならぬ「絶食系」男子どもは、この大切な時期に男になり損ねた者たちであり、もう手遅れであるらしい。
道場は、と言えば・・・ある意味「体罰」があるのかもしれないが、誤解を恐れずに言えば、その封建的社会こそが、信頼関係を維持しながらの武道教育とも言えるのかもしれない。
この問題についてはこれからも議論が繰り返されるであろう。私達も常に問題意識を持って道場での人間教育に取り組まなければならないが、やはり子供のころから武道の世界に身を置き、その武道精神を以って将来活躍してくれる有能な若者を育成する事が、道場の役割ではないかと思う。



ちなみに・・・私達世代は草食系や絶食系とは全く無縁であるが・・・あしからず。



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