思考伝聞

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押忍

「守・破・離」

   最近は、よく剣道など武芸の習い事で「守・破・離」と言う言葉を聞く機会が多くなりました。もちろん、これは「空手道」の世界でも全く同じなのですが・・・残念ながらフルコンタクト空手にはこの言葉はあまり当てはまりません。何故って・・・

 ここで、少々真面目に「守・破・離」の意味を私なりに考えてみたいと思います。
そもそも「守・破・離」とは、江戸時代を通じて長く武田流軍学の基本教科書として重んじられてきた「甲陽軍鑑」に記された兵法用語であり、この段を千利休が次の様に詠んだとの事です。
   規矩作法 守り尽くして
   破るとも 離るるとても
   本ぞ忘るな
 これを江戸千家、不白流茶道開祖の川上不白が「不白筆記」、横井淡所の「茶話抄」等で説き、この詩が禅や能や武芸に応用され開花結実し、修行する者の「道」の指針となったそうですが、色々な説が微妙に絡み合っており、本当の所は不明の様です。仏教では「習・絶・真」、雅楽、能楽など日本の伝統音楽では「序・破・急」等とも言い、あらゆる「道」の修行における順序段階での教えです。
 「守・破・離」は、現在では広く日本の武芸に使われるようになり、習い事をする上での心構えとなっていますが、この考え方は既に武芸やスポーツに留まらず、ビジネスでの仕事を習得する心構えにも応用されています。
 この「守・破・離」は、以下の3段階に分けられます。

 「守」・・・最初の段階であり、師の教えを忠実に守ります。師の話を聞き、師の行動を見習って、師の価値観をも自分のものにする努力をしていきます。全てを型通りにやり、やがて段々型にはまり融通のきかないものになるので、この段階では上達しているかどうかは師に評価してもらうことになります。そして、学ぶ者の疑問に対して師が「自分で考えろ」と言うことが多くなったら、次の段階に移っていきます。

 「破」・・・次の段階は、自分独自に工夫して、師の教えにはなかった方法を試み、型にはまったことを破って行く努力をします。そして、今まで学んで身につけた教えや型、技が確実に身につき、修行がさらに進んでいけば、自然と他流の師の教えも心がけ、他流のよい技を取り入れ、自己の守ってきた型の技を破って心と技を発展させていきます。すると、師との違いを自分で判断できるようになり、自分の考えが段々と固まってきて、自分流を見出だしてくるようになります。

 「離」・・・最後の段階では、指導者のもとから離れて、自分自身で学んだ内容を発展させていきます。試行錯誤して見えてきた自分の型を、経験に基づき肉付けし、もしくは削り磨き上げて、師の型から前進し、独自の型を創る段階です。「破」の状態よりさらに修行していくうちに「守」にとらわれず、また「破」も意識せず、おのずから一つの形が完成し、独自の新しいものを生み出し修行していく事です。もちろん師から離れると、自分の流儀は世間の目で厳しく評価され、世の荒波も自分で被らねばなりません。

 もちろん「離」の後も、「本ぞ忘るな」の言葉通り、教えを受けた師に対する礼、現在の自分を作ってくれた礎を決して忘れてはいけません。すなわち「頭は低く目は高く口慎んで心広く孝を原点として他を益する」という極真精神に「道」は繋がっています。
 前進せねば「離」にあらず。また、ここは到達点にはあらず。


 どうでしょうか?素晴らしい教えですね・・・剣道や居合い、一部の空手等はまさにこの通りなのです。しかし・・・現在のフルコンタクト空手はどうでしょうか?残念ながらフルコンタクト空手は、この様な段階を踏まなくても、ちょっと道場で習っただけで、イヤ、本やDVDを見ただけでも基本はもちろん、型までも真似事が出来てしまいます。ましてやミットや自由組手ならすぐにそれらしくなるから、すぐ先生気取りになり、体育館に子供達を集めれば一流一派の出来上がり。「守」の段階にも到達してないうちに「破」の段階も飛ばし、いつの間にか「離」に行っちゃってますよね・・・私の町にもそういう「空手道」を冒涜している輩がいます。

 「組手至上主義、勝負偏重主義」はあくまで極真のプロパガンダであり、実際、大山総裁は基本や型をとても重要視されていました。基本稽古によって一つ一つの技が上手になり、それを型に、更には組手に活かせなければ意味がありませんし、この「守」から「破」する段階が難しい故に、空手に型不要論者がいるのではないだろうかと思います。最近の空手道場の中には、基本や型を軽視し自由組手のみに走る傾向があり、そういう人達が大会に出れば、競技に特化した戦い方の練習を充分に積む訳ですから、そこそこの成績を残し、それで満足してしまうでしょう。
 しかし、大山総裁は空手としての「衿持」、武道家としての「礼節」を常に重んじ、勝者の「ガッツポーズ」を戒め、「空手着を着たキックボクシング」なるものを決して許しませんでした。大山総裁が目指した本当の「空手道」とは、前述した「守・破・離」の様に、空手道の修行段階を確立し、その過程において「尊敬、感謝、忍耐」等の武道精神を教える事が武道教育であり、それを実践する事によって「人格形成」を成し得て、世界に通用する多くの若者を育成する事ではなかったでしょうか。

 繰り返しになりますが、極真空手とは基本が出来て、型が上手く、その土台があった上で組手が華麗で強くなければなりません。まさに「地に沿った基本、理に叶った型、華麗なる組手」です。しかし現実は「組手が強ければそれで良し、型なんぞ力強く行い組手の強さで判断すればいい」のが現状です。でも、それが極真だと言うのなら、他派閥や他流の組手のチャンピオンや20代の若くて強い選手が、型の順番を30分もかけて覚えたら、今の師範や先生では「競技の組手」はおろか「競技の型」でさえも、その人達には永久に勝てない事になります。例えば空手歴30年の先生が、空手歴5年の組手選手に「型の順番」を一時間も反復されたら追い越されちゃう・・・そんな事はないかな・・・。

 かれこれ10年以上前、他派閥ではありますが、初めて全日本型大会が行われ、その時の採点基準や審判の講習会等は、私や奥田先生で仕切らさせて頂きました。その時の各審判員の努力や苦労は大変なものでしたし、その後、回を重ねる度に様々な問題に直面してきましたから、型競技の難しさは誰よりも理解しているつもりです。そもそも型は競技化するものではないと言う意見も充分理解出来ます。しかし、現実としてやると決まった以上は、体力任せの「極真の型」から「空手全般の技量」を顕す「型」を目指さなければならないと考えます。そしてそれを裁く審判の目も、「組手の技量」のみではなく「正確さ、力の強弱や気合い気迫、身体の伸縮や転身、技の緩急、流れ」等を以って「空手全般の技量」を見極めて欲しいと思います。

 さて、明日は明後日からの「長谷川師範の組手セミナー」のため名古屋入りします。先日は「大石師範の型セミナー」に呼んで頂き、現在の極真を代表する、お二人の素晴らしい師範と稽古出来る環境に心より感謝しております。        押忍。



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